と言うことで自転車で和歌山市内までやってきました。
その中でこちらの神社へ 刺田比古神社(さすたひこじんじゃ)です。
入り口にあった看板
内容は多分
延喜式内社
和歌山城鎮護 刺田比古神社 さすたひこじんじゃ 岡の宮
吉宗公搭い親
鎮座地 和歌山市片岡町二丁目九
祭 神道臣命
大伴 佐氏 比古命
当神社は岡の里(現在の和歌山市広瀬、大新、番丁、
吹上、芦原、新南地区)の氏神様である。神武御東征
の際に活躍した道臣命、百済救済の武功で知られる佐
氏比古命をお祀りしている。古来よりこの地は人が住み、
境内には岡の里古墳がある。道臣命は岡の里の出身と
され、佐氏比古命二十世の裔大伴武持が大伴氏の発
祥であるこの地に祖神、祖霊を祭祀し、里人はその神德
を仰ぎ産土神として崇敬した。南北朝の騒乱により荒
廃するも嘉吉年中に氏子等が修造した。元和年中徳川
頼宣公が紀州入城の際、城の守護神たるこの神社を崇敬
し、社殿を修築し社宝を奉献し更に領地を寄進した。
二代城主光貞公以後は産土神として崇敬を受け、殊
に八代将軍吉宗公御誕生の時、神主岡本周防守長嶺
が仮親となり特別に崇敬をうけた。吉宗公は将軍就任
に際し開運出世の神と崇敬され、享保年中二百石の朱
印地を寄付し、神社境内の殺生を禁じ、黄金装飾の太刀
壱振(国宝)、神馬一頭を献じ、永く国家安泰の祈願社
として年に壱万度の祓を命ぜられ、神主岡本長刻より代
代三年に一度将軍に拝謁した。よって氏子の崇敬益々厚
く、明治六年四月に県社に列せられた。昭和二十年七月
九日の戦災に御神霊のみ安泰、社殿、宝物、古記録すべて
焼失した。その後氏子等の敬神により現在の復興となった。
和歌山城鎮護 刺田比古神社 さすたひこじんじゃ 岡の宮
吉宗公搭い親
鎮座地 和歌山市片岡町二丁目九
祭 神道臣命
大伴 佐氏 比古命
当神社は岡の里(現在の和歌山市広瀬、大新、番丁、
吹上、芦原、新南地区)の氏神様である。神武御東征
の際に活躍した道臣命、百済救済の武功で知られる佐
氏比古命をお祀りしている。古来よりこの地は人が住み、
境内には岡の里古墳がある。道臣命は岡の里の出身と
され、佐氏比古命二十世の裔大伴武持が大伴氏の発
祥であるこの地に祖神、祖霊を祭祀し、里人はその神德
を仰ぎ産土神として崇敬した。南北朝の騒乱により荒
廃するも嘉吉年中に氏子等が修造した。元和年中徳川
頼宣公が紀州入城の際、城の守護神たるこの神社を崇敬
し、社殿を修築し社宝を奉献し更に領地を寄進した。
二代城主光貞公以後は産土神として崇敬を受け、殊
に八代将軍吉宗公御誕生の時、神主岡本周防守長嶺
が仮親となり特別に崇敬をうけた。吉宗公は将軍就任
に際し開運出世の神と崇敬され、享保年中二百石の朱
印地を寄付し、神社境内の殺生を禁じ、黄金装飾の太刀
壱振(国宝)、神馬一頭を献じ、永く国家安泰の祈願社
として年に壱万度の祓を命ぜられ、神主岡本長刻より代
代三年に一度将軍に拝謁した。よって氏子の崇敬益々厚
く、明治六年四月に県社に列せられた。昭和二十年七月
九日の戦災に御神霊のみ安泰、社殿、宝物、古記録すべて
焼失した。その後氏子等の敬神により現在の復興となった。
と書いていると思います。
鳥居を入ると、馬 の人形がありました。
こちらは白の馬だけでした。
そちらを見ていると、にゃんこさんが
足下にやってきました。
ず~っと足下をついてきます。
その中、
でこちらは本殿でしょうか。
この中にちょっと珍しいものが写ってます。
で右下には大きな絵馬が
有りましたがこれが正解ではありません。
正解はこちら。
そうです。野生のリスです。
2匹そのあたりを走り回ってました。
かなり頑張って写真を撮ろうと努力しましたが
これが一番でした。
この敷地内には 岡の里古墳 も有るらしいです。
この神社は和歌山市内にありますが、
自然あふれる感じでした。
ちょっと良い感じでした。
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