本町薬問屋発祥の地

ひとりごと

昔、仕事で薬剤関連の会社に行ったことが有り、
その際、置き薬は、富山 と 奈良 が競っていたと
教えてもらいまして、それから気になっていたんです。
薬問屋発祥の町 って事で、その石碑が有りました。

雨で半分何が刻印されているか解りませんが…

脇には看板が有りまして、

書かれている内容をやつに要約してもらうと…

江戸時代初期から日本橋室町・日本橋本町地域は薬草や薬を扱う薬種問屋の集積地として栄えました。多くの薬種問屋が集まり、仲間組合を結成して独占販売を行いました。薬の匂いが立ち込め、派手な看板が店外に飾られるなどして薬種店や問屋が賑わいました。明治時代には薬種問屋組合が設立され、現在でも薬祖神祭など伝統行事が行われ、製薬会社の本社ビルが立ち並び、薬のまちの面影が色濃く残っています。

と言う事で、まあ東京らしいわな~って感じでした。
最近ってビルの入り口に社名など書いているのが少ないので
よくわかりませんでしたが、現在でも薬の会社がたくさん有ったようです。
後で置き薬の件で、ちょっと薬の生産金額ってのを調べてみたら
さすがに富山は上位ですが、奈良は…(^^ゞ
和歌山は予想通りかなり少ないです。



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看板の内容を文字認識させた内容も挙げておきます。

薬種問屋の集積地・本町
所在地 中央区日本橋室町・日本橋本町地域
江戸時代初期から、日本橋の本町二・三丁目(現在の日本橋室町二・三丁目と日本橋本町
二・三丁目)や大伝馬町周辺には、薬草や薬を扱う薬種問屋が軒を連ねていました。江戸城下
町建設の際、目を病んだ人々にもてはやされた「五霊膏」を売り出して評判を得た益田氏や、
これこう
いわしや
薬種問屋の草分けとされる鰯屋・小西屋などを筆頭に、多数の薬種問屋が集まりました。 これ
らの薬種問屋らは仲間組合を結成し、独占販売を行いました。
本町三丁目のあたりは「本草を道へならへる三丁目」「三丁目句はぬ見世は三四軒」などと
せんりゅう

川柳に詠まれるように、薬の匂いが立ち込めるほどに薬種店や問屋が集まっていました。
また、薬の差別化・宣伝のため、派手で趣向を凝らした看板が店外に飾られていました。 文
政七年(一八二四)の買い物案内書である『江戸買物独案内』によれば、本町三丁目には約
四〇軒、 本町全体では六〇軒近くの薬種問屋が掲載されています。
えどかいものひとりあんない
明治十七年(一八八四)、現在の公益社団法人東京薬事協会の前身となる薬種問屋組合が、日
本橋を中心とする東京の薬種問屋六二名により設
立されました。大正十一年(一九二二)の組合員
名簿には一三六軒の事業者が名前を連ねており、
そのうち一〇六軒が本町や本石町など現在の中央
区域に事業所を持つ事業者でした。
明治四十一年(一九〇八)には上野の五條天神社
から薬祖神の御霊を迎えて大祭が執行され、昭和四
年(一九二九)には薬事協会事務所の屋上に薬祖神社
が造営されました。 平成二十八年 二〇一六)、日本
橋室町二丁目の福徳の森に社殿は移りましたが、現
在も毎年十月に薬祖神祭は行われており、多くの
人々で賑わっています。
日本橋本町周辺は、現在も多くの製薬会社の本
社ビルが立ち並び、江戸時代以来続く薬のまちの
面影を色濃く残しています。
令和四年三月

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