こちらの峠は、峠の頂が県境では無くって
峠を越えて少し走った所に有ります。
山中川って言うのかな?橋を渡る所が県境です。
この県境ですが…日本最後の仇討ちの場でして、
石碑や看板が有ります。
そこには多分…
日本最後の仇討ち場
安政4年(1857年) 土佐藩士広
笄大六は、同藩士橋三郎に、口論の末
切り捨てられた。
大六の一子岩之助は、当時江戸に申し
出て、いわゆる「あだうち免許状」を与
えられた。(安政5年)
岩之助は、加太にひそんでいた三郎を
発見し、紀州藩へ改めて、あだうちを申
し出たところ、紀州藩としては「三郎を
国ばらいとし境橋より追放するので、あ
だうちをしたければ境橋附近、和泉側に
て、すべし…」と伝えられた。
文久3年(1863年)、岩之助は境
橋の北側で三郎を待ちうけ、みごとにあ
だうちを果したとされる。
これは、日本で許された最後のあだう
ちであると伝えられる。
安政4年(1857年) 土佐藩士広
笄大六は、同藩士橋三郎に、口論の末
切り捨てられた。
大六の一子岩之助は、当時江戸に申し
出て、いわゆる「あだうち免許状」を与
えられた。(安政5年)
岩之助は、加太にひそんでいた三郎を
発見し、紀州藩へ改めて、あだうちを申
し出たところ、紀州藩としては「三郎を
国ばらいとし境橋より追放するので、あ
だうちをしたければ境橋附近、和泉側に
て、すべし…」と伝えられた。
文久3年(1863年)、岩之助は境
橋の北側で三郎を待ちうけ、みごとにあ
だうちを果したとされる。
これは、日本で許された最後のあだう
ちであると伝えられる。
と有るはずです。
そして、石碑に県橋と書かれていましたが
この看板読めねえよ~
多分これ。
古い感じでは有りますが、
間違い無く当時の物では有りません(^^ゞ。
仇討ちの場ですが、これと言って何もありません。
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