ちょっと原付でお出かけへ。
お連れさんのお宅を様子伺いして
大阪方面へ
その途中に有ります。 山口王子跡 です。
単車だと、気をつけていかないと見落としてしまうよ~
って感じで目立たないところに。
こんな感じです。
横には看板が有ります。
ココにはこう書かれているはずです。
この地は、かつて、雄の山口の湯屋といわれていました(現
在も湯屋谷という地名があります)。 永保元年(一〇八)
九月二十五日、藤原為房は、ここから国府の南路日前宮を経
由して藤代に向かっています。 王子社名は、藤原定家の日記、
建仁元年(一二〇一)十月八日条や、藤原頼資の日記、承元四
年(一二一〇)四月二十四日条に見られます。定家は後鳥羽上
皇に、頼資は修明門院に随行した時に、日記を書き残したの
です。天保十年(一八三九)に完成した 『紀伊続風土記」に
は、三橋王子とも書かれており、江戸時代には、境内の周囲が
三十二間の王子権現社であったことが知られます。この王子社
は明治時代の神社合祀で、山口神社に合祀されました。なお、
古代に雄山に置かれていた関所は、白鳥関と呼ばれており、自
鳥伝説を残しています。
在も湯屋谷という地名があります)。 永保元年(一〇八)
九月二十五日、藤原為房は、ここから国府の南路日前宮を経
由して藤代に向かっています。 王子社名は、藤原定家の日記、
建仁元年(一二〇一)十月八日条や、藤原頼資の日記、承元四
年(一二一〇)四月二十四日条に見られます。定家は後鳥羽上
皇に、頼資は修明門院に随行した時に、日記を書き残したの
です。天保十年(一八三九)に完成した 『紀伊続風土記」に
は、三橋王子とも書かれており、江戸時代には、境内の周囲が
三十二間の王子権現社であったことが知られます。この王子社
は明治時代の神社合祀で、山口神社に合祀されました。なお、
古代に雄山に置かれていた関所は、白鳥関と呼ばれており、自
鳥伝説を残しています。
周辺の文化財についてですが、
やはり熊野古道に関する物が多いです。
これから、雄ノ山峠を超えて大阪方面へ
走って行きたいと思います。
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