後で調べたら、こちらの王子については
アップした事が無かったようで…
熊野古道の川辺王子旧跡 です。
単車で来たのですが、地元民でないと
ちょっとわかりにくい所に有ります。
ちょっと正面から見たところ。
私の陰が写っていますが…
こちらにちゃんと説明があります。
ココに書かれている内容は多分
藤原定家の日記、建仁元年(一二〇一)十月八日条に「川辺
王子」 藤原頼資の日記、承元四年(一二一〇)四月二十四日
条に「四橋」の王子名が見られます。四橋王子という名は、
泉国と紀伊国の境にあった堺橋から数えて、四番目の橋付近に
あったことから、名付けられたのでしょう。山口王子が三橋王
子といわれたのも、このためだと思われます。この王子社は、
『紀伊続風土記』によると、いつのころからか、八王子社と呼
はれるようになり、江戸時代には川辺村 (和歌山市川辺)の力
侍神社境内に遷座したとあります。当地に残った旧八王子社を
川辺王子跡と考証したのは、『和歌山県聖蹟』ですが、参詣道
が不自然に迂回するため、川辺王子社は川辺村薬師堂付近にあ
ったとする説もあります。
王子」 藤原頼資の日記、承元四年(一二一〇)四月二十四日
条に「四橋」の王子名が見られます。四橋王子という名は、
泉国と紀伊国の境にあった堺橋から数えて、四番目の橋付近に
あったことから、名付けられたのでしょう。山口王子が三橋王
子といわれたのも、このためだと思われます。この王子社は、
『紀伊続風土記』によると、いつのころからか、八王子社と呼
はれるようになり、江戸時代には川辺村 (和歌山市川辺)の力
侍神社境内に遷座したとあります。当地に残った旧八王子社を
川辺王子跡と考証したのは、『和歌山県聖蹟』ですが、参詣道
が不自然に迂回するため、川辺王子社は川辺村薬師堂付近にあ
ったとする説もあります。
確かに変に和歌山市内方面に迂回しているので
おかしい感じですよね。今は 力侍神社が川辺王子
となっている様です。
いつもご覧頂きありがとうございます。
😇 コメント・フォロー大歓迎です。😇
コメント