大和御前之宮

GoogleMapを見ていたら、こんな所に神社が有るんだ
って事で、行ってきました。
全体的に新しい神社に見えます。
こちら拝殿でしょうか?
他の方が 参集殿 と書いてました。
こちらの前には、休憩所やなんか受付みたいなのが
有るのですが…。
本殿には 撮影禁止と有ったので掲載できないので…
その奥に有ったのが
猿田彦大神 と有ります。
そのお隣には
薬永大神 薬力大神 と有ります。
参集殿の横に有った掲示板にこのような張り紙が…
ガラスで反射して文字認識出来なかったので、タイプで
間違えているかもね(^^ゞ
御祭神 天照大神 大己貴神 猿田彦神
はるかなる太古 神代の時代 天照大神の命により
素戔嗚尊の子 五十猛命(別名 伊太祁曽大神)大屋津姫神
柧津姫神の三柱の神が小種を持って 道祖神猿田彦神の
導きでこの和歌山市北野の地に天降られました「杉と櫲樟(くす)は船に
檜は宮殿に柀(まき)は棺に使いなさい」と気の材質に応じた用途を
的確に時事されて子種(こだね)を蒔かれました それゆえこの地を「木の国」
(元明天皇以降 紀伊の国)と呼ぶようになりました 紀伊の国を発
祥として大八洲全体に草木が育ち宮殿をはじめ民屋にまで材木が使
われるようになったのは この神々らの御功績です この三柱の
神垣はこの宮から分け御魂され それぞれの宮にお祀りされていま

大己貴神は兄弟神に命をねらわれ紀の国に逃げ ここから根の国の
素戔嗚尊の所に向かったといういわれがあります
大和御膳之宮の「大和」は日本の国を表す言葉で この名が
つく宮は 日本でただ二つの大和神社と当社だけです。 それゆえ
伊勢神宮と同等の扱いを受けていました 日本書紀の記述にも
四十一代持統天皇が幣帛や新羅からの調を伊勢神宮 大和神社
住吉大社そして当社に奉られたとあります(六九十年頃)
「御前」とは海に突き出た場所という意味で この宮の創祀のころ
は この宮から前は海でした 朱の鳥居が潮の満ち干する所に立
てられ 千木 鰹木が黄金に輝く荘厳な神社でした この宮を手本
にして作られたのが安芸の宮島こと厳島神社です(厳島神社の創祀
は推古天皇元年(五九三年)といわれてます)
寛治二年(一〇八八年)七十三代堀川天皇は 熊野三山に御幸あらせ
られた折 当社にも参拝され幣を奉られました そして長治元年
(一一〇四年)神田四十八丁 社地五丁四面の土地を寄附されまし

この後より 末社十五社に及ぶ広大な宮となり 昼に巫祝(かんなぎ)の神楽の鈴の音が鳴りやまず 夜は一晩中ともされる明かりに目を奪われる
ほどのにぎわいで 天皇から一般の民まで深く広く崇敬されていま
一三九九年 己卯の年 紀伊の国(他五国)の守護大内義弘は時の将
軍足利義満に陥れられ 応永の大乱で敗死 その折 戦火にかかっ
て この宮の社頭残らず焼かれ わずか十分の一を残すのみとなり
ました
その後も 何度も焼かれ その姿は古文書に残るのみとなりました
そして六〇〇年後の今年 一九九九年己卯の年の卯の月 卯の日
卯の時(大安吉日)大和御前之宮は もともとの天孫降臨された場
に遷宮されました。
          参考文献 「紀伊国名所 会」巻三
               「日本書紀」巻第一 巻三十
               「古事記」
まじっすか? この内容だったら、この規模ではダメでしょ…
前の老人ホームも何とかしないと…。
きれいに整備されており、お掃除されている方も
おられましたが…
毎月 1日 15日 25日 11時から式典をやっているらしいですが
この張り紙を見た瞬間にこれはやばいなぁと思いました。
こんな事書くから敷居が高くなるんやな…
それ以外の日は手前に有る、こちらの老人ホームへ
行けば物販はやってくれるのでは無いでしょうか?

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