桃のシーズンに桃山町周辺を探索してみました。
と言っても、ココは紀ノ川を渡った、元打田町ですけどね。
という事で、この周辺には色々と有るようで
西行法師像です。
国道424号沿いにその像は有ります。
きちんとした看板が有るにもかかわらず通り過ぎる私。
こちらに説明書きが有りました。
内容は今回ちゃんと文字認識させてますよ。
歌聖西行法師 (1118~1190)
西行法師【俗名 佐藤義清】は、平安時代末期か
ら鎌倉時代初期にかけての代表的歌人である。
佐藤氏は、田仲荘・池田荘【旧打田町】の在地領
主で、代々京都に出仕して左衛門尉や検非違使等の
官職を勤めた。
西行も保延元年(一一三五)、十八歳で左衛門尉と
なり、北面の武士として鳥羽上皇を護衛していたが、
同六年(一一四○)に二十三歳で突然出家した。出家
後は歌道の研鑽あるいは諸国行脚の日々を送り、宗
教・文学・政治・芸能など、当時の文化の全領域に
活躍した。
また、西行が育ったとされる紀の川市竹房は、現
在地から東へ約五百メートルの位置にあり、付近に
は『佐藤城址』という通称名が残り往時の佐藤氏の
隆盛を窺わせる。
西行は、建久元年(一一九〇)七十三歳で、河内国
弘川寺【大阪府河南町】にて没した。
紀の川市教育委員会
西行法師【俗名 佐藤義清】は、平安時代末期か
ら鎌倉時代初期にかけての代表的歌人である。
佐藤氏は、田仲荘・池田荘【旧打田町】の在地領
主で、代々京都に出仕して左衛門尉や検非違使等の
官職を勤めた。
西行も保延元年(一一三五)、十八歳で左衛門尉と
なり、北面の武士として鳥羽上皇を護衛していたが、
同六年(一一四○)に二十三歳で突然出家した。出家
後は歌道の研鑽あるいは諸国行脚の日々を送り、宗
教・文学・政治・芸能など、当時の文化の全領域に
活躍した。
また、西行が育ったとされる紀の川市竹房は、現
在地から東へ約五百メートルの位置にあり、付近に
は『佐藤城址』という通称名が残り往時の佐藤氏の
隆盛を窺わせる。
西行は、建久元年(一一九〇)七十三歳で、河内国
弘川寺【大阪府河南町】にて没した。
紀の川市教育委員会
でも、内容については 河南町のHPの方が詳しく書いてあるので
こちらをリンクしておきます。
確かに 吉野の桜 はきれいですよね。
平清盛 とも関係が有ったようで、
野迫川の資料館を思い出しました。
南河内、吉野、高野周辺にゆかり有る方です。
歴史に興味無い私でも、適当にうろうろして
後で調べると、適当につながりが出来るとなんか
うれしいような気がしてきます。
ちなみにバス停もそんな名前です。
ココでバスを降りても、本当にこれしか無いですからね。
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