これから歴史モードになりますが、
私には全く解説できませんので、ご了承ください。
こんな場所が有りますぜ~と言う感じで見てください。
橋本市中心から国道371号を南下していきます。
酷道となってくるあたりに、このような物が有ります。
織田秀信終焉の地 と有ります。
近くに看板がありますので、詳しく知りたい方は
こちらを読んでください(^^ゞ
この写真は解像度を落としてますので
久しぶりに文字認識を…(^^ゞ
織田秀信公ゆかりの地
○善福寺
村中にあり寺廃てて近年又庵を立てたり、茶師堂存す(中略) )
境内に岐阜中納言秀信卿の墓及び位牌あり、位牌の銘に大喜院殿前黄
門松貞桂融大居士、慶長十三年申七月二十七日とあり、塚は堂後に
ありて文字なし、二尺許の石なり、秀信卿比里に整居て遂に逝去す
といふ、按するに秀信卿の墓高野山光台院の後の山に五輪塔ありて
銘文も明なり、然して當寺にもあるは此に居住せて故なるべし
(江戸時代未編纂「紀伊續風土記」)
織田秀信公は、織田信長の嫡孫で幼名を三法師と称した。
文祿元年(一五九二年)十三万五千石の岐阜城主となり、慶長五年
(一六00年)関が原の戦には、西軍に味方して破れ、加納(岐阜
市)の円徳寺に入って剃髪した。秀信公は、高野山に入ったが程な
く下山し、ここ相賀荘向副村に閑居した。
里人に暖かく迎えられた秀信公は、生地新左衛の娘「町野」を妻と
し一子をもうけた。 向副村を終焉の地と定め慶長十年五月八日
(一六〇五年)波乱にみちた生涯を閉じた。
位牌は、今も向副観音寺に祀られ、地元向副の人たちによって守
り伝えられている。
なお、善福寺跡には、秀信公の墓と伝える自然石の墓石が残され
ているが、銘文は刻まれていない。下壇には、大正七年四月、織田
氏の後裔や有志によって建てられた高さ三メートルの遺跡保存の記
念碑があり、秀信公を偲ぶことができる。
○善福寺
村中にあり寺廃てて近年又庵を立てたり、茶師堂存す(中略) )
境内に岐阜中納言秀信卿の墓及び位牌あり、位牌の銘に大喜院殿前黄
門松貞桂融大居士、慶長十三年申七月二十七日とあり、塚は堂後に
ありて文字なし、二尺許の石なり、秀信卿比里に整居て遂に逝去す
といふ、按するに秀信卿の墓高野山光台院の後の山に五輪塔ありて
銘文も明なり、然して當寺にもあるは此に居住せて故なるべし
(江戸時代未編纂「紀伊續風土記」)
織田秀信公は、織田信長の嫡孫で幼名を三法師と称した。
文祿元年(一五九二年)十三万五千石の岐阜城主となり、慶長五年
(一六00年)関が原の戦には、西軍に味方して破れ、加納(岐阜
市)の円徳寺に入って剃髪した。秀信公は、高野山に入ったが程な
く下山し、ここ相賀荘向副村に閑居した。
里人に暖かく迎えられた秀信公は、生地新左衛の娘「町野」を妻と
し一子をもうけた。 向副村を終焉の地と定め慶長十年五月八日
(一六〇五年)波乱にみちた生涯を閉じた。
位牌は、今も向副観音寺に祀られ、地元向副の人たちによって守
り伝えられている。
なお、善福寺跡には、秀信公の墓と伝える自然石の墓石が残され
ているが、銘文は刻まれていない。下壇には、大正七年四月、織田
氏の後裔や有志によって建てられた高さ三メートルの遺跡保存の記
念碑があり、秀信公を偲ぶことができる。
と書いていると思います。
こちらが善福寺旧跡とあります。
織田秀信(左側)と松山タケノ(右側)の顕彰碑 がありまして、
これらの顕彰碑は同じ時期に作られているって感じですね。
更に奥には 織田秀信の墓所があります。
こちらが善福寺の井戸があったようです。
手前がちょっと広くなっていたので、このあたりに
色々と建物があったのだろうと思われます。
目の前に大きな木が有ったようで
切り倒されている感じです。
国道の道が整備されているので、この場所も
どうなるのかなって感じになってます。
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